北鎌倉散策④!
明月院④!
開山堂(宗猷堂)・・・このお堂は禅興寺隆盛時代(1380年頃)明月院境内の中に建立されていた宗猷堂(そうゆうどう)を後に開山堂としたものである!

瓶の井(釣瓶の井)・・・鎌倉十井の一つ。岩盤を垂直に掘り貫いて造ったとみられ、その内部が水瓶のようにふくらみがあることから「瓶の井(かめのい)」と呼ばれ、鎌倉十井の中でも現在使用できる井戸としては数少ない貴重な存在である。鎌倉十井とは、江戸時代、水質があまり良くなかった鎌倉の地において、数多くある井戸の中でも良質の水が湧いたと伝えられる十の井戸(説明板より)!

明月院やぐら(羅漢洞)・・・「やぐら」は中世鎌倉時代特有の洞窟墳墓である。開口七メートル、奥行六メートル、高さ三メートルで、鎌倉市現存の最大級である。
壁面中央には釈迦如来・多宝如来の二仏と両側に十六羅漢を浮き彫りにし、中央に明月院中興開基、上杉憲方公をまつる宝篋印塔、その前には禅宗様式を表わした香炉が安置されている。
このやぐらは、もともと、永暦元年(1160年)平治の乱、京都で戦死したこの地の豪族、山ノ内俊道の菩提供養の為に子供である山ノ内経俊によって造られたと伝えられ、その約二百二十年後に上杉憲方が生前に自から墓塔を建立したと伝えられるが、凝灰岩質であるために風化が著しく、それらの彫成年代は明確ではなく今後の解明が待たれる。
上杉憲方公は上杉重房公の四代目の曾孫で山ノ内上杉家の祖。憲方公の子孫の憲政の時、北条氏康との戦に敗れ越後の長尾景虎を頼り上杉の家名をゆずった。長尾景虎は後の戦国時代の武勇、上杉謙信である(説明板より)!



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開山堂(宗猷堂)・・・このお堂は禅興寺隆盛時代(1380年頃)明月院境内の中に建立されていた宗猷堂(そうゆうどう)を後に開山堂としたものである!

瓶の井(釣瓶の井)・・・鎌倉十井の一つ。岩盤を垂直に掘り貫いて造ったとみられ、その内部が水瓶のようにふくらみがあることから「瓶の井(かめのい)」と呼ばれ、鎌倉十井の中でも現在使用できる井戸としては数少ない貴重な存在である。鎌倉十井とは、江戸時代、水質があまり良くなかった鎌倉の地において、数多くある井戸の中でも良質の水が湧いたと伝えられる十の井戸(説明板より)!

明月院やぐら(羅漢洞)・・・「やぐら」は中世鎌倉時代特有の洞窟墳墓である。開口七メートル、奥行六メートル、高さ三メートルで、鎌倉市現存の最大級である。
壁面中央には釈迦如来・多宝如来の二仏と両側に十六羅漢を浮き彫りにし、中央に明月院中興開基、上杉憲方公をまつる宝篋印塔、その前には禅宗様式を表わした香炉が安置されている。
このやぐらは、もともと、永暦元年(1160年)平治の乱、京都で戦死したこの地の豪族、山ノ内俊道の菩提供養の為に子供である山ノ内経俊によって造られたと伝えられ、その約二百二十年後に上杉憲方が生前に自から墓塔を建立したと伝えられるが、凝灰岩質であるために風化が著しく、それらの彫成年代は明確ではなく今後の解明が待たれる。
上杉憲方公は上杉重房公の四代目の曾孫で山ノ内上杉家の祖。憲方公の子孫の憲政の時、北条氏康との戦に敗れ越後の長尾景虎を頼り上杉の家名をゆずった。長尾景虎は後の戦国時代の武勇、上杉謙信である(説明板より)!



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